わがまちの歴史散策 - 花見川・新川の開削工事と印旛沼
まえがき
 私たちの町、千葉市花見川区を流れる花見川は、南は弁天橋や柏井橋から東京湾に注いでおり、川に沿ってサイクリングロードが河口まであり、両岸は緑ゆたかな林に囲まれ、野鳥の声を聞きながら、サイクリングや散歩、さらにバードウォッチングを楽しむ人々が絶えません。(写真1〜3参照)
 また、北は新川から、西印旛沼・捷水路を経て北印旛沼、長門川をとおり、利根川に注いでいます。東京湾から利根川までの全長は約45kmで、印旛沼水管理施設により水位が常にコントロールされ、洪水防止のほかに工業用水・農業用水・飲料水として、さらに憩いの場をも私たちに提供してくれています。(写真4〜5参照)
 この静かな川や沼も、江戸時代には、洪水を防ぐために花見川と新川を開削して結ぶため、三度にわたり実施しましたが、大変な難工事でいずれも失敗に終わり、昭和43年漸く完成しております。今も工事中になくなった方々の遺体が川辺の藪で眠っているそうです。なぜ洪水が…、なぜ敢えて難工事を実施したのか…と歴史をたどっていくうちに平安時代の「香取の海」までさかのぼってしまいました。
 (文責及び写真撮影:竹田功、丸山貞司呂=パソコン同好会)
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1.香取の海
 遠く縄文時代の昔は、印旛沼一帯から鬼怒川下流域を含んだ広大な内湾で、「古鬼怒湾」といわれています。今から1000年前の印旛沼は、霞ヶ浦、手賀沼、水郷一帯を一つにした大きな水域の一角で、「万葉集」ではこれを「香取の海」と呼ばれていました。(図-1参照
 香取の海は、その後も中小の河川が運んでくる土砂により徐々に埋め立てられ、淡水の印旛沼が形づくられてきました。
2.利根川の東遷
 その後徳川家康は、江戸を利根川の洪水から守り、かつ新田開発と舟運の整備を目的として、当時江戸湾に注いでいた利根川を、現在のように銚子から太平洋へ流れを変えるため、大土木工事を1594年から60年をかけて行いました(図-1参照)。これが、「利根川の東遷」といわれるものです。その結果運ばれてくる大量の土砂により急速に湖沼化が進み、印旛沼が誕生しました。
 東遷の結果、印旛沼に利根川の水が流れ込むことになり、周辺地域で雨が降ったときはもちろん、日光や奥利根で降った場合でも洪水が起きるようになりました。この結果、印旛沼は、「あばれ沼」と呼ばれるようになりました。このため、江戸幕府は、寛文2年(1662年)から利根川と霞ヶ浦を結ぶ水路を作って、印旛沼を切り離す工事をしましたが、水路沿岸に甚大な洪水被害が出て失敗しました。
3.印旛沼の水を江戸湾に流す開削工事への挑戦
 印旛沼の水を江戸湾(東京湾)に放流すために、新川と花見川を結ぶ開削工事が、江戸時代に三度試みられました。
 第1回目は享保の改革の時で、平戸村の農民源右衛門らによって享保9年(1724年)に印旛沼を干拓して新田を起こしたいと幕府に出願し、許されて幕府からも数千両を借用して、工事を実施しましたが難工事のため多額の負債となり、工事を中止せざるを得なくなりました。
 第2回目は、安永・天明期(1780〜1786年)に行われ、幕府は平戸村(現八千代市)から検見川村(現千葉市)までの掘割を掘り印旛沼の水を放水して新田をおこし、また舟運を開こうと計画し、印旛郡草深新田(現印西町)の名主平左衛門と島田村(現八千代市)の名主治郎兵衛の二人に工事見積もりをさせ、着手しました。
 その後工事は進展しましたが、天明6年(1786年)に利根川の大洪水により印旛沼はむろん下利根川流域は海のようになってしまいました。さらにこの工事の推進者である老中田沼意次が失脚するに及んで已む無く中止の事態となりました。
 第3回目は 天宝14年(1843年)に幕府は駿河国沼津藩・出羽国庄内藩・因幡国鳥取藩・上総国見淵藩・筑前国秋月藩の五大名に御手伝普請を命じました。
 工事は平戸村から検見川村までを、五区間に分け、それぞれの大名が責任を持って着手進行しました。
 しかし 工事が開始されると横戸村(今の弁天橋から柏井橋近辺)から花島村(今の花島観音近辺)かけては、植物が腐食して出来た土で水分を多く含んだ「化燈土(けとうど)」とよばれる軟弱な土質(泥炭層)の為、工事は大変難渋を極めました。
 この様な難工事と老中水野忠邦が天保の改革に失敗して老中を罷免されたことにより、この工事はまたまた中止せざるを得なくなりました。
 この様にして、三度の試みがいずれも失敗に終り人々の永い間の期待と夢が果たせなかったのです。難工事であった横戸村(現弁天橋付近)から花島村(現花島橋付近)までの間では、多くの工事犠牲者が出て、今でも無縁仏として付近の藪の中でひっそりと眠っているといわれています。
4.高度な土木技術に支えられ地域住民悲願が達成
 その後、明治・大正・昭和と時代と共に徐々に整備され、さらに昭和21年、終戦後の食糧難の解消を目的として、国営干拓土地改良事業がスタートし、昭和35年に印旛沼排水機場が完成しました。
 わが国が戦災復興を成し遂げ、東京湾に京葉工業地帯造成されて、都市化が進み始めた昭和38年、水資源開発を目的に加えて事業は農林省から水資源開発公団に引き継がれました。昭和41年には酒直水門(写真6参照)、酒直機場、大和田排水機場(写真7参照)が相次いで完成しました。
 更に、沼周辺を守るための延長約38kmの堤防、排水するための延長約16.5kmの疎水路、上流部」(現新川、平戸〜大和田)、下流部(現花見川、大和田〜検見川)などが新しく開削されました。そして昭和44年、ついに周辺地域の洪水防止に加え、農業用水、工業用水を供給する多目的な「印旛沼水管理施設」が整備されました。その陰には、軟弱な地質を克服する高度な土木技術の支えがあったことを忘れてはなりません。
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《参考文献》
1.水資源公団 千葉揚水総合事務所発行パンフレット
 ・「歴史を受け継いで守り育てる地域の恵み」
 ・「印旛沼開発施設緊急改築事業概要」
2.国土交通省関東地方整備局利根川上流工事事務所ホームページ
3.国土交通省関東地方整備局ホームページ
サイクリングロード(注1)
 花見川上流の弁天橋から砂利道が、花島橋まで続いています。川の周囲は樹木が茂り、あたかも緑のトンネルを通るようです。野鳥も多く途中に説明看板があります。花島橋より東京湾岸までは舗装道路となっているが、緑のトンネルは新花見川大橋まで続きます。それ以降は視界が広がり、田園風景や幕張新都心も遠望できます。
 一方、弁天橋から北へは、新川と田園風景が続き、休日などは、釣りを楽しむ人の多いのに驚きます。新川に沿うサイクリングロードはほぼ水平で、舗装も整備されていて、初夏から秋にかけては頬をなでるそよ風も心地よく、楽しいサイクリングを満喫できます。西印旛沼から印旛捷水路をとおり北印旛沼、更に酒直水門あたりまでは、サイクリングロードはよく整備されています。それから先はデコボコの砂利道などが一部にありますが、利根川まで漸次整備されつつあり、新しい橋も建設され開通をまじかにひかえています。
(注1)
 
このサイクリングロードについては、渋谷孝雄さんのホームページがあり、綺麗な写真と丁寧な地図が豊富な立派なものです。是非ご覧ください。「Lounge S 八千代・印旛沼サイクリングコース案内
2-1.利根川の東遷
 近世以前の利根川は、鬼怒川・小貝川とは水系をことにし、乱流・変流をほしいままにしながら、埼玉平野を数条に分かれて東京湾に(江戸湾)に向かって流れていました。これが天正18年(1590年)に徳川家康の江戸入府を契機に、江戸時代の初期60年間において、利根川の数次にわたる瀬替工事等が行われた結果、太平洋に注ぐようになりました。この一連の工事は後に「利根川の東遷」と呼ばれています。(図-3参照)
 60年間に及ぶ東遷事業には、次のような工事があります。
 ・1594年:「太日川の瀬替え」、「会の川の締め切り」
 ・1621年:「新川通の開削」、「赤堀川の初開削」
 ・1635年〜41年:「江戸川の開削」
 ・1641年:「権現堂川の掘削」、「逆川の開削」
 ・1654年:「赤堀川の増削・通水」
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3-1.第2回目の工事に関する文献
 この安永・天明期に作成されたと思われる「下総国印旛沼御普請掘割絵図」が島田(現八千代市)の治郎兵衛家に現存しています。 この絵図は縦135cm・横161cmの和紙に、道畑水干潟田堤山 を七色に色分けして書かれています。 この絵図を見ると当時の,印旛沼周辺の様子を伺い知ることが出来ます。
 この時代平戸川(現新川)と花見川は未だつながっておらず、印旛沼が現在より大きく平戸(現八千代市)付近まで入り込んでいました。また東京湾は房州浦海と呼ばれていました。
 またこの工事に関する文書は、安永9年(1780年)の「下総国印旛沼新開大積り帳」、天明3年(1783年)の「印旛沼新掘割御普請目論見帳」により当時の開削計画を知ることが出来ます、またこの幕府の大事業に周辺の八千代・千葉流域の住農民の多くが参加関与していたことが伺えます。
4-1.印旛沼水管理施設(施設の操作)
a.水位を調節しながら揚・排水(図-4参照)
 水を安定供給するため、また沼周辺を洪水から守るためにも、印旛沼とその流域の各所に設けられた揚排水機場、水門といった施設を適切に操作して、印旛沼の水位を調節しています。
 印旛沼の管理水位は、かんがい期(5月〜8月)にはYP2.50m、非かんがい期(9月〜翌年4月)にはYP2.30mを常時満水位とし、洪水時では最高位をYP4.25mと定めています。 水の供給は、農業用水、工業用水、水道用水それぞれの利用者が必要に応じ、常時満水位と最低水位YP1.5m間に貯留された水を汲み上げて使用しています。
 平常時には、上記の水利用者が安定した水利用ができるようにするため、酒直水門により水位保持を行うとともに、印旛沼が常時満水位以下の場合は、利根川から長門川を経由して、酒直用水機場で印旛沼に汲み上げ、水位を確保しています。この用水は、最大毎秒20?を限度とし、利根川下流域の流況に影響を与えないことが条件となっています。
 洪水時の操作は、印旛沼水門(国土建設省)、酒直水門、印旛排水機場、大和田排水機場で行います。その際、水位や気象情報に基づいて自然排水、ポンプ排水により、印旛沼の最高水位をYP4.25に、また長門川はYP3.0mを越えないよう操作しています。
 これらの状況に応じた適切な用水を行うため、水資源公団千葉用水総合管理所では、各機場の施設や堤防、捷水路などの巡視、点検整備に努めています。

b.洪水時に活躍する排水機場(洪水防御)(図-4参照)
 印旛沼流域では、2、3年ごとに集中豪雨に見舞われており、洪水時は、降雨量や印旛沼、鹿島川、利根川の水位の観測結果によって、印旛沼の水位上昇を予測し、各排水機場の運転時期や運転台数を判断しています。
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