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 人生の始まり…わが故郷 第一章 竹田 功(9班)2010.05.06
 旅の思い出ハイデルベルク 竹田 功(9班)2004.06.09
 函館山随想 竹田 功(9班)2004.04.06
人生の始まり…わが故郷 第一章 竹田 功(9班)2010.05.06
 1944年12月15日午前2時、この時間が私の記憶に残るわが故郷への第一歩である。
 この地は昨夜から初雪となり既に3~5センチ積もる駅頭に、祖母が黒ぽい布で頬かむりをして待っていた「まぁまぁ、よう来たよう来た」と角巻に包み込むようにして私たちを迎えてくれた。私らは、前日の午前4時に起きて杉並の家を発ち荻窪から赤羽で高崎線に乗り換え高崎まで省線電車、高崎でようやく汽車に乗りこむ事が出来た。列車は新潟に向けて敵の空爆を逃れるように一目散に三国峠へと走る、しかし北へ向かう列車が数珠繋ぎなのかやたらに一時停車になる。
 清水トンネルに着いたのは午後も大分過ぎてからだったと記憶する、トンネルの中間附近にあるほの暗いホームに停車、このまま数時間(4~5時間位か)列車は微動だにせず、トンネル内に降りて歩いたり、居眠りをしたり退屈な時間を過ごした。後から知ったことだが外は空襲警報で列車は外にでられず、トンネル内には沢山の列車が詰まっていたとのことであった。このあと宮内駅乗換え、信越線でようやく柏崎駅に着いたのが午前2時となったのだが、9歳の時の経験がまだありありと思い出させれるのはそれだけ強烈に脳裏に焼きついている物と思われる。
 私達とは、姉18歳、弟6歳と私の3人、駅前通りを柏崎神社方面に歩きそこから下四ツ谷へと凍てつく雪道を歩く、私は赤茶色の革靴を新潟に行くので母が買ってくれた新調の物だったが、何しろ革靴も始めて、雪道も初体験と云う事で滑る道を何度も転んで四苦八苦、数回転んだ頃、祖母が「チョッと待ってやしゃい・・・」と姿を暗闇の中に消し数分後にわら縄の切れ端を持って現れ、私の靴の上からわら縄を縛りつけて「ハイ、これでよっしゃ・・・」と歩き出した。田舎ではこんな事をするんだと、その知恵と言うか機転に子どもながらに偉く感心した。それから約30分、柏崎市下四ツ谷、父の生家にたどり着いた。 これが、私の新潟暮らし、疎開暮らしの始まり、となった。
 家は、間口7~8間の細長い家で中庭が有り一番奥の土蔵が祖母の部屋でこれとて十畳二間あり今考えると随分大きな家であった。ここに、東京からの3家族、支那(今の中国)から1家族、満州(今の中国)からの1家族合計20人余の一族が住めたのだからすごい大きな家であったと思う。
 1944年の雪は凄く12月14日から降りだした雪は止むまもなく降りそのまま根雪となり、数日せずに2メートル以上となり、道に出るのに階段を登ったりトンネルを作ったりと、東京から行った私達は何もかも初体験で、親と離れての生活であったが珍しい物づくしで1~2ヶ月は瞬く間に過ぎた。学校は、柏崎市立比角国民学校4年生に転入した。毎日の登校にはゴム長靴はなく、マントもなし、そこで祖母が用意してくれたのがわら靴とツットコ(わらで編んだ頭からスッポリかぶる物)で、これをかぶり雪をしのいで、集団登校で約20分歩いて学校に通った。学校に到着すると素足で体育館に集まり集団登校グループで、体が温まるまで「押し競饅頭」、これは、鰯が追われて固まりスパイラルアップする様に、後ろ向きになって押し合う遊びで、身体は湯気が出るほど暖かくなったものだった。他には、連結式の馬飛び、これは繫がっている馬をつぶすことが目的で、いささか乱暴な元気のいい遊びであった。また、ガキ大将のグループリーダーが、疎開っ子いじめを頻繁にしたが、私が5年生の終わりごろには、復讐、今で言うリベンジにかかり、相手は逃げる様になりましたが・・・・複数の復しゅうをして、地盤(今なら縄張りとでも言いますか)を作っていって楽しい環境,良い友達つくりをしていった。
 翌年の3月10日、4年生の3学期となっていた、女性の遠藤先生が授業の終わりごろ、昨夜から今暁に、東京が大空襲に遭い、東京は全滅したとの話があって、その時私の心臓の鼓動は、ハッキリ聞こえるくらいに高まった。親家族の安否、もう会えなくなるのでは、不安で頭の中は空洞となり思考を失い、教室から出て行った先生を追って、廊下で先生に迫った。「先生今の話は本当ですか、私の親は東京に居る、・・・・」泣いて先生に抱きついた。今考えると、先生も困ったことであってと思うし、その後の経過は記憶にないのは、何故だろう、おそらく、祖母や叔母や伯母たちが電報か何かで、東京に連絡を取り、生存を確かめてくれていたのだと思う。
 この年の大雪は、記録に残るもので、今で言う“里雪”の多い年で、日本海から2kmしか離れていない街中でも大雪であった。この雪も、3月の初めには、雪原(下は田んぼ・小川)上を凍み渡りをして遠くまで歩いたり、3月も末になると待ちに待った春の息吹きが感じられた。逃げることの出来ない厳しい自然の環境の中で、春、暖かさ、花の香りなど一挙に感じられる新潟・越後の春を待ち焦がれて、初めての実感が1945年3月に子ども心にも切実に感じることが出来た。家の傍に有る、「ねずみ洞」(小さな蛇が沢山いる池)の横を流れる小川の上の雪が落ちて、土手の黒い土が見えそこに、ふきのとうや姫菜の芽が顔を出す、これらの情景は昨日のことの様に思い出される。この絵の様な姿、春も進むと三階節で名高い米山に、雪型が見え「種まき爺さん」「鯉型」など季節の風物詩が今も懐かしく思い出される。「春の海 ひねもす のたりのたりかな」小林一茶 この句は厳しい自然の季節を乗り越えてた人々にのみ判る穏やかな新潟の俳句です。
 まだ、沢山のふるさとへの思いは尽きません、今回はその第一章をおくります。 
旅の思い出ハイデルベルク 竹田 功(9班)2004.06.09
 私達がハイデルベルクに着いた時は、街並みは落ち行く日差しの残照で、白壁に茶色の屋根の家々はオレンジ色に染まっていた。旧市街地はハイデルベルグ城の城下町として、石造り文化の町で大変昔から繁栄した。城は町の西側小高い丘の上にあり、スイスから流れ込むライン川と町を一望する位置にあり、悠久の昔の姿の侭で、石造りのキャッスルらしい堂々としたものであった。私達は秋も深まる午後、フランクフルトについて、バスでアウトバーンの沿線の広々とした田園農村地帯の景色を楽しみながら、ハイデルベルクの宿泊地へと移動した。ドイツは基本的に農業国家で、おそらく穀物・畜産物等は自給自足が可能な国である。広大な畠のあちらこちらに、集落が見られ、遥か地平線まで同じような景色が随所で見られた。 ハイデルベルク - 遠景
HOTEL RITTER RESTARANT  ドイツと言えば代表的な農産物は、馬鈴薯と豚肉ではないだろうか。豚肉はフランクフルトソーセージに代表される様にソーセージやハムなどに加工される。いわゆるデリカテッセンとして発展していて数知れぬアイテムを誇る国である。私達はその国で食べ歩き旅行を行った。今はハイデルベルクは学園都市として、多くの学校・大学があり芸術・美術等中心地で古い歴史を持ち合わせている。この町は古都として今も観光交通の要所ともなっており、またライン川のほとりでスイスからオランダを抜けて大西洋に至る水上交通の基地として、昔も今も旅の宿泊地として栄えたところである。川にはパナマ運河のような水門式の水運方法がとられて、水位の高低差を調整する設備があり約3~400tクラスの細長い船が往来していた。 壁に描かれたアート
ハイデルベルク城壁  この町は石造りだけに我々の想像以上に昔の建物が現存してお城の近くには何百年も前の監獄なども今は観光の対象となっていた。ホテルも昔の石造り、石段などよく歩くところは凹んでいた。内部は古色蒼然とした木造りで階段の手すりなどは彫刻が施され黒光りする立派なものであった。エレベータは日本にも50~60年前には見られたジャバラ・ネット状の代物で手で力一杯閉めて「ガチャン」と云う無機質な音が今でも耳に残る。さすがに石造り文化の町、黒光りするような姿、昔のものを大切に残し使っているのには、つくづく感心させられました。ライン川はハイデルベルクを通るとマインツを過ぎコブレンツでモーゼル川と合流し、ボン・ケルン・ジュッセルドルフを北上してオランダのロッテルダムに通じている。マインツ・コブレンツそしてモーゼル川流域はドイツワインの産地で、日本の甲府勝沼あたりの地形を拡大したような場所であった。黒猫ブランドの白ワインの味は格別で、ジャガイモ料理・ハム・ソーセージ・そしてキリとした味の白ワインとグスベリ-のデザートは忘れられない旅の思い出となった。
函館山随想 竹田 功(9班)2004.04.06
 谷地頭から細い林道を通って立待岬に向かう。
 函館山のお鉢を回り込む様にして、雨に洗われた新緑の道を登って行く、函館山は、かって渡島半島の先端に噴火によって出来た島であっただけに、傾斜はきつく特に谷地頭から岬に通じる面は岩石の露出が見られ、遥か下方で砕ける海峡の波頭が、高速撮影の画面を見るような感じで揺れ動く。
 バスは、うなり声を上げて急坂を道一杯にきしみながら進み、やがて啄木の墓碑前で徐行、東を背にした碑には「東海の小島の磯の白砂にわれ……」の名歌が刻まれ、啄木の二十七年間の生涯のうちの二年七ヶ月を過ごした函館に対する愛着の念が偲ばれる、彼が最も愛したといわれる谷地頭から青柳町にかけての町並みが、樹海の下に美しく見え、物故してなお彼にふさわしい処に碑があり、好適な場所を得たものと感じた。
 バスは、立待岬の駐車場を一周してから更に奥に向かう、函館八幡宮、護国神社から谷地頭小学校、そして函館山登山道へと入る。
 かっては砲台があり要塞地として、一般の人からは遠い場所であったこの山も、戦後開放されて、今では四季それぞれ市民の憩いの場として親しまれ観光の名所となった。山には、北海道内にあまり類を見ない杉の植林地帯や、本州との関連のある草木が多くその数は三千余種とか。
 自然は黙して語らぬが、そのたたずまいは、悠久の昔の何かを、今に語りかけるような静寂で美しい深い彩りを見せている。
 五合目を過ぎる頃から見晴らしがきき始めエキゾチックなハリストス正教会や、白百合学園の校舎が、色鮮やかな町並みの屋根と一緒にどんどん沈んで行く。
 八合目あたりからは一段と景観が大きくなり、函館の街並みがパノラマの様にすっかり見渡せるようになる。
 東側は、弓形に伸び海岸線が遠く恵山へと続いている、西方は、各種の湾岸施設や連絡船の行き交いが眼下に眺望できる、ウサギの餅つきの杵を思わす函館の市街地は、一番細い部分は東西わずか千米余しかなく両側を海で押さえられた形となっている、長い歴史を持つこの町を、山上からは一目で収められ、澄んだ空気は街路の角々まで見える様だ。
 やがて、道脇の岩肌に咲き乱れるエゾイワツツジの小枝をはねる様にして、バスは山頂に到着する。
 好天に恵まれた今日は、四方一望に眺められ、南には青森下北半島の恐山が薄墨で画いた絵の様に見え、西は遠く渡島半島南端知内・小谷石の切り立った崖が津軽海峡に落ち込み、北は緑の大牛横臥しているかの如くなだらかな起伏が見られる、東には恵山の山並みの間に噴火の後の硫黄が残雪の様に望まれる。
 渡島半島の南端、丁子型の頂点からの三百六十度の大パノマラの景観は、正に函館の至宝の景色であり、他に比すべきものは無いと思う。啄木が愛したこの北の町は、わたしの心にも深い深い印象とよろこびを与えてくれた。         春の旅
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